t.y.d encyclopedia 〜ティ・ワイ・ディ事典〜
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フリーランス時期 【1987年〜1990年3月】
この時期は、「安野龍昭デザイン事務所」(Tatsuaki Yasuno Design Office略してTYD)として、フリーランスの立場でグラフィックデザインをしていました。会社勤め経験の短い安野としては、どんな仕事でも全て新鮮に見えたのもこの頃です。それだけにこの頃はどんなデザインでも楽しんでやっていた記憶があります。
87年、日本に正規代理店を持たないアップルコンピュータの最新鋭"Macintosh II"を米国より直接購入。当時は"パーソナル・コンピュータのフェラーリ"とも異名をもつ同機は後のデザイン業界に多大な影響を与えたことはあまりにも有名な話です。
しかし、安野はDTP(DeskTopPublisingの略。つまり、印刷のための原稿をコンピューターの画面上で作り上げること)という言葉が大嫌いでした。もとい!言葉というよりその言葉を鵜呑みにして、卓上カンタンデザイン(レイアウトですが)マシンとして使う輩が大嫌いなのです。
よく引き合いに出される"手(またはエンピツとノート)でやるか、Macでやるか"という愚問が、当時デザイナーの間で論議されていましたが、そのこと自体が意味のないことだと思っていました。「どっちでもない。頭と体でやらないで、マウスもエンピツもないさ。」というのが持論。当たり前のようで、実はこのことがわかっていない人だらけでしたね。
Macintoshでデザインすることなんかステータスでもなんでもない。むしろ、使っていることを隠したいくらいでした。知らない人は「へぇ〜、Macでデザインしたんだぁ。いいなぁ、そういうの持っていて。」これじゃまるでMacがデザインしてくれたみたいじゃないですか!
始めから請け仕事体制ではありませんから、金銭的な効率(手抜きとも言いますが)など考えての導入ではありません。Macintoshをデザイン作業に取り入れることで、現実には不可能な数々のシミュレーションができることが大好きだったのです。
なんて、この頃はこんなことをムキに考えていたのですね。アオかったなぁ。
デザイン学校講師時期 【1987年4月〜1988年3月】
ある時、安野のクライアント筋から、日本工学院専門学校デザイン課の講師をやってみないか?!という話が舞込んで来ました。数日は悩みましたが(大体、人にモノを教えるガラじゃない)こんなこともこの先無いだろうと思いお引き受けしたのですが、これが結構面白かったのです。今になって思えばもう少し続けても(自分のためにも)良かったかもしれません。
専攻するのは当然"グラフィックデザイン"。といっても、広告を作ったり単に技法的なことをさせるのはあまりにも単純過ぎて(他の先生に任せておけはいいと思っていた)私の性分にも合わないのでもっぱらミーティングスタイルの講義。これが結構生徒にウケて、週末2時間だけの予定が大幅に超過。
夜、生徒と酒を飲みながら終電まで付き合ってしまう有様。先生と生徒というより、どうも兄貴として思われていたみたいです。
そんな関係があってのことか、2年間終わって気づいてみるとその生徒の中から2名をわが事務所に迎え入れることになったのです。後で考えてみると、この2人を同時に引き入れたことが事務所を自宅から別の場所へ切り離し、株式会社ティ・ワイ・ディを設立することのキッカケだったことは確かです。
デザイン会社時期 【1987年〜1990年3月】
平成2年4月に株式会社ティ・ワイ・ディ(以降TYDと略)設立。改めて言うのもヘンですが、発足当初は純粋なデザイン会社だったのです。折りしも時代は"バブル崩壊"を迎え、前途多難のスタートとなりました。なんて、本当はあまり気にもしていなかったのですが。
法人化してフリー・デザイナーと大きく違ったのは、やはり"組織"になったことでしょう。元来"組織"に属すことができなかった安野が自分の"組織"を持つというのは、ちょと不思議な気がしました。
加えて"社長"呼ばわりされるのが大嫌いな安野は、その行動もやはりいつも現場主義でどちらかといえば"大将"とか"ボス"という呼び名がピッタリでした。もちろん名刺に代表の文字は無く、よく外の人に聞かれました。
「あのぉ〜、社長はどなたですかぁ?」しかし、このことは後に改めなければならないことになるのです。
マルチメディア〜研究時期 【1994年〜1995年】
デザインにコンピュータがどんどん進出してきたこの時期は、TYDにとっても変革の時期でもありました。
仕事も徐々にマルチメディア(うゎ、古い言葉!)にシフトして行ったのもこの時期です。3Dアニメーションを使った放送用の素材作りやCD-ROMのデータ制作、果てはゲームの画面やキャラクターなど、数年前のしっとりとしたグラフィック・ワークとは程遠いプラスティックな存在感の仕事に取り囲まれていきました。
もし、今後このようなニーズに対応して、わが社の方向の中にこういった能力を必要とされる局面が頻繁にあるのであれば、ある一定期間(少なくとも1年くらい)は本格的に研究の必要があったのです。中途半端に仕事ができないTYDの性格なのでしょう。そして、実際にやってしまったのです。
今まで、お受けしていた仕事やクライアントに無理を言ってその後のワークを他のデザイン会社を紹介することでTYD自体の仕事を皆無にするというバカげたことをしました。これからの展開を考えるとここで1年間研究に費やすことが、どうしても必要だったのです。
(結局この1年間が、後のTYDの運命を決定付けすることになったのです。)
インターネットは、プロバイダもまだほとんど存在しない暗闇の中の手探り状態。しかし、ホームページというキーワードを知ってしまったTYDにとって、やること成すことこの上も無く楽しい時期でした。
う〜ん、今思い出すと背筋が寒くなるほどヤバいことしたのですね。
インターネット時期 【1995年〜1999年】
「言うは易し、しかし…」やりたいだけではどうにもなりません。まして、接続プロバイダですらまだ商売になっていない時期です。ご多分に漏れずTYDとてまだ趣味の域を脱していない、かなりきびしい時期でした。
しかし、コンピュータの時もそうでしたがパイオニア(先駆者)のメリットというのはあるものですね。ポツポツとホームページ制作の依頼が舞込んでくるようになったのです。(ホームページはTYDが得意とするCIを具現化したメディアなので、当然というばあまりにも当たり前なのですが。)
当時はホームページを発注すること即ちサーバ立ち上げや全ての管理をこなせる能力も同時に要求される時代だったのです。今、考えるとそのころは分業なんてインターネットの常識に無かったのですから、かなり乱暴な時代でした。
そんな過酷な要求に応えるのも悪いことばかりでなく、TYDのスキルアップには多大な影響があったと思います。当時、普通の会社では全てを引き受けるなど到底夢のような状態にもかかわらず、企画・制作・プログラミング・実行・管理からハードウエアまで、およそインターネットで必要とされる業務は全て、それも高次元でこなせるようになったのも大きな進歩と言えるでしょう。
そして本当の意味でのクリエイティブ時期へ 【1999年〜現在】
TYDの思うところの通常のインターネットワークに限界を感じ始めたのは、丁度この頃です。つまり特定のクライアントの仕事ではTYDの能力を全て注ぎ込めるワケも無いことに気が付いたとでも言うべきでしょうか?
「誰もやっていないことをやろう!」@Smart(アット・スマート)計画を立ち上げたのもそんな行き詰まりがキッカケでした。
企業のCIを生業にしてきたTYDが、もっと大きな意味でのCIを目指したひとつの答えが@Smartに集約されているのです。そして、その実力の集大成である@Smartが果たして未知の不特定多数のユーザに本当に満足を、そして感動を与えられるだろうか?!それが@Smartの目的でもあったのです。
現在、TYDは@Smartに次ぐWeb環境を構築中です。
まだ、多くを語れませんが、新しい@Smartなんていうつまらない企画ではありません。もちろん、秘密にしているのは模倣を恐れてのことではありません。
(現に@Smartも法的プロテクトこそかけてはおりますが、公開2年を超えた現在でも同等の条件・能力を持ったサービスは存在しません。)乞うご期待というところですね。
これからもTYDは"新しくも古くもない、皆が欲しがるあったらいいなという環境"をクリエイトしていきます。"わが社のCIの縁の下の力持ち"って言われたら、最高ですね。